2013年04月23日

バイオ兵器「エイズ」を巡ってエトセトラ  その3  〜コッホの原則の破綻〜 

○バイオ兵器「エイズ」を巡ってエトセトラ 〜ファイザーとGEヘルスケア 多国籍製薬メーカー〜
http://desuperado.seesaa.net/article/356028523.html?1366283026

○バイオ兵器「エイズ」を巡ってエトセトラ その2 〜脳炎 ギランバレー インフルエンザ〜
http://desuperado.seesaa.net/article/356426124.html?1366485401


あと、何回かかるかな・・・



前回に、狂犬病のウイルス、並びにワクチンを怪しんで見ましたが。
それには、水銀が使われていて、それの神経毒だ!
と、言われそうですねw

僕もそんな気したりもしますが、
どーも、ワクチン、薬害を追うと、スピリチュアルに遭遇するw
まぁ、スピの始まりは、クスリ事業の奴等と同じ出処w
単純に仲たがいの人達も多いだろうけど、
警察とヤクザの関係。
右手と左手。

しかも、医療系な人達もソコからの引用が多い。
まぁ、スピが医療の話から取ってきたからだ、と言われればそーかもしれませんが。

なんかね。
「水銀」が出る時って、どーにも気になっててね。

まぁ 答えは一つじゃない と 思ってるんで。


わざわざ書かなくてもいいかな、と思いますが、一応。
ワタシ、なんの専門知識も学もございませんので。
デスペのはんなり全般を通して言える事ですが・・・
気になったなら御自分で調べて下さい。


さてと、どこからいこーかな。。







1879年 − コレラ(Cholera)の最初のワクチンが開発。
1881年 − 炭疽(Anthrax)の最初のワクチンが開発。
1882年 − 狂犬病(Rabies)の最初のワクチンが開発。
1890年 − 破傷風(Tetanus)の最初のワクチンが開発。
1890年 − ジフテリア(Diphtheria)の最初のワクチンが開発。
1896年 − 腸チフス(Typhoid fever)の最初のワクチンが開発。
1897年 − ペスト(Plague)の最初のワクチンが開発

1926年 − 百日咳(Pertussis、whooping cough)の最初のワクチンが開発。
1927年 − 結核(Tuberculosis)の最初のワクチンが開発。
1932年 − 黄熱病(Yellow Fever)の最初のワクチンが開発。
1937年 − 発疹チフス(Typhus)の最初のワクチンが発明された。
1945年 − インフルエンザ(Influenza)の最初のワクチンが開発。
1952年 − 小児麻痺(Polio)の最初のワクチンが開発。
1954年 − 日本脳炎(Japanese encephalitis)の最初のワクチンが開発。



1879年のコレラから1897年のペスト。
そこから1926年の百日咳まで間がある。
天然痘からのエイズも見えたりしますね。


731部隊の北里柴三郎(北里研究所)が師事を仰いだ、
炭疽菌、結核菌、コレラ菌のドイツ人、ロベルト・コッホ。




はい。

ロベルト・コッホ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%9B

1843年12月11日 - 1910年5月27日)は、ドイツの医師、細菌学者。ルイ・パスツールとともに、「近代細菌学の開祖」とされる。


概要
炭疽菌、結核菌、コレラ菌の発見者である。純粋培養や染色の方法を改善し、細菌培養法の基礎を確立した。寒天培地やペトリ皿(シャーレ)は彼の研究室で発明され、その後今日に至るまで使い続けられている。

また感染症の病原体を証明するための基本指針となるコッホの原則を提唱し、感染症研究の開祖として医学の発展に貢献した。



1843年、ヘルマン・コッホとヘンリエッテ・ビーヴェントの間にニーダーザクセン州の東南にあるクラウスタール(ドイツ語版)(ハルツ近郊、現在ツェラーフェルトと合併しクラウスタール(ドイツ語版))生まれ、ゲッティンゲン大学を卒業。

1876年、炭疽菌の純粋培養に成功し、炭疽の病原体であることを証明した。このことによって細菌が動物の病原体であることを証明し、その証明指針であるコッホの原則を提唱した。

1882年3月24日、結核菌を発見した。ヒトにおいて炭疽菌と同様に病原性の証明を行って、論文『結核の病因論』を著わし、ヒトにおいても細菌が病原体であることを証明した(後にこれを記念して、3月24日は世界結核デーと制定された)。

1883年、インドにおいて、コレラ菌を発見。

1890年、結核菌の培養上清からツベルクリン(結核菌ワクチン)を創製。当初は治療用に使用することが目的だったが、効果がなかったため、現在では診断用のみに用いられている。

1893年、妻エミーと離婚、30歳年下のヘドヴィグ・フライブルクと結婚。

1905年、結核に関する研究の業績よりノーベル生理学・医学賞を受賞。
ベルリン大学で教鞭をとり、彼の弟子として、

腸チフス菌を発見したゲオルク・ガフキー、
ジフテリア菌の分離に成功し、口蹄疫ウイルスを発見したフリードリヒ・レフラー、
血清療法の研究により1901年ノーベル生理学・医学賞を受賞したエミール・ベーリング、
化学療法の研究により1908年ノーベル生理学・医学賞を受賞したパウル・エールリヒ、
破傷風菌を純粋培養し、ペスト菌を発見した北里柴三郎
などを輩出した。

1908年、北里に招かれ来日。
1910年、ドイツ南西部のバーデン=バーデンで逝去。
[編集] 関連事項
ベルリンには彼の名を冠したロベルト・コッホ細菌研究所がある。
医学の基礎研究に貢献した研究者に授与されるロベルト・コッホ賞が創設されている。
北里研究所には北里柴三郎によってコッホ祠が建立された。北里の死後はその弟子により北里祠も建てられ、後に合祀されてコッホ・北里神社となっている。
ドイツでパウル・エールリヒと梅毒の最初の特効薬サルヴァルサンを開発していた秦 佐八郎は日本へ帰国前、臨終に立ち会った。





はい。

コッホの原則なるものが、いろいろと昨今の薬害ネタに作用してるように思えるが。
つーか、これが詐欺の始まりなんじゃ?


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%9B%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%89%87
「コッホの原則」の原義は、
ある一定の病気には一定の微生物が見出されること
その微生物を分離できること
分離した微生物を感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こせること
そしてその病巣部から同じ微生物が分離されること
の4点からなり、「コッホの4原則」とも呼ばれている。

ただし、コッホの原則は、その解釈の違いや後述するヘンレの原則との混同から、いくつかのバリエーションも広まっている。


ヘンレの原則とコッホの原則
ヘンレの原則とは、コッホがゲッティンゲン大学の学生であった当時、組織学教授として教鞭をふるっていたヤーコブ・ヘンレが1840年に発表したもので、コッホの原則の原案に相当する。ヘンレは、ある微生物が特定の病気の原因であることを証明するためには以下の三つの条件を満たす必要があると考えた。

ある一定の病気には一定の微生物が見出されること
その微生物を分離できること
分離した微生物を感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こせること
この3つをヘンレの原則あるいはヘンレの三原則と呼び、コッホの原則はこれに4つ目の条件を付加したものである。 ヘンレがこの原則を発表した当時、すでにいくつかの病気については病巣部に特定の微生物が存在することが見出されていたものの、当時の技術ではその微生物を単独で分離することが不可能(VNC状態)であったため2つ目以降の条件を満足させることは出来なかった。

その後、固形培地による細菌の純培養技術の確立など、研究技術の進歩により、1876年にコッホは初めて炭疽菌の分離および純培養に成功した。さらにそれを動物に接種して炭疽を起こせること、その病巣部から再び炭疽菌が分離できることを明らかにした。これが、単なる現象論のみでなく科学的な実証実験によって病気と病原体との因果関係を証明した最初の報告である。コッホは以後、同じ方法論で結核菌やコレラ菌を発見し、ヘンレの原則はコッホの原則に取り込まれて病原体の同定法として確立されることになる。これ以降、数多くの病原体がコッホの原則に則って発見され、医学微生物学は急激な進歩を遂げた。





はい。
ここから崩していきましょう。

菌(微生物)は、気温や環境の変化に極端に弱い。
ので、単体ではなく、多種多様な微生物と共に、コロニー(バイオフィルム)の中で生息している。
その時折の環境の中で、活動するものと活動を停止してるものがいる。



○バイオフィルムとはなにか
http://www.ritsumei.ac.jp/lifescience/skbiot/morisaki/what's%20biofilm.html
我々の身の周りには様々な形、物が見られますが、それらには必ず表面が存在します。

これら表面には一つの共通点があります。

どれもこれも微生物が付着しているという事実です。  


 表面に付着した微生物は単独で存在しているのではなく、

特徴ある構造の中で、他の微生物と言わば微生物共同体「バイオフィルム」を形成しています。


1)バイオフィルム中の微生物は浮遊したものではなく、付着したものであり、

2)これら微生物は単独ではなく複数で共同体を形成している



という二つの事実を、我々は先ずしっかりと認識し、

そして、これら事実に基づいて、微生物に関して我々が知っていることを

謙虚に振り返る作業が必要になってきます。

例えば、我々はフラスコ中で微生物を液体培養し、その諸特性を知ることはできます。

しかし、これら諸特性が付着状態にある微生物のものと同じであると確信できるでしょうか?

あるいは、ある微生物が自分と同じ種に属する仲間と一緒にいる場合と、

その微生物のすぐそばに別種の微生物がいる場合の挙動は、はたして同じでしょうか?

このように、バイオフィルムは、これまでの微生物学に根元的な問いかけを発している様に思えます。

極論すれば、純粋培養された浮遊状態の微生物に関して我々が蓄えてきた知見は、

付着し共同体を形成しているバイオフィルム中の微生物には通用しないかも知れないのです。






はい。
コッホの原則や、今の医療怪の中では、純培養技術=フラスコの中の浮遊状態 だが、
自然界において、菌は、付着したもので、上記した、複数の複合体(コロニー)で生息。

「極論すれば、純粋培養された浮遊状態の微生物に関して我々が蓄えてきた知見は、
付着し共同体を形成しているバイオフィルム中の微生物には通用しないかも知れないのです。」


でわ、「通用されるもの」と、ゆーのは?



△難培養微生物とは何か?(注PDF)
http://www.jseb.jp/jeb/07-02/07-02-069.pdf


PDFなので、コピーが出来ませんw
ので、軽くでイイので目を通してもらえるとありがたいんですが、
結論を言うと、培養出来る菌(微生物)は、例外中の例外だ、と言う事。
ほとんどが、難培養微生物といって、ワカラナイという事。
そして、微生物の生育速度というのは、遅いのが基本なんだが、
大腸菌は、例外中の例外で30分。







●わたしんちの医学革命と雑多な情報 2009年09月18日
○感染学の大御所も勘違いか。ゴッホの三原則を基礎にした現代医学の感染対策の危うさ度100パーセント?

http://blog.goo.ne.jp/akyoon/e/7fa4eee1f4f6ced7ee18d0670ec4f33b


『培養できない微生物たち −自然環境中での微生物の姿−』
(Rita R. Colwell,学会出版センター)

 もしも目の前に感染症を疑わせる患者がいたら,どのようにするだろうか。

症状である程度あたりをつけ,血液検査などを行い,同時に細菌検査を行うはずだ。
そして喀痰や糞便を採取してそれらを寒天培地などで培養し,そこで培養できた菌を感染起炎菌と考え,抗生剤を投与して・・・という手順を踏むはずだ。あまりにも当然過ぎる手順である。

特に,「細菌は培養して同定する」というところに疑問を持つ医者はほとんどいないと思う。細菌は培養できるもの,というのが常識だからだ。

 ところが,この20年くらいで,微生物の専門家の間では,この「常識」が完全に否定されている。

自然界には「生きているが培養できない細菌 Viable But NonCulturable (VBNC)」がたくさんいて・・・というより,圧倒的多数の細菌はVBNCの状態で存在していることがわかったからだ。



つまり,培養できる状態の細菌は自然界の例外中の例外の細菌だったのである。





 その例外的細菌を相手に,ああでもない,こうでもない,と治療法を探ってきたのがパスツールを祖とする細菌学であり,医学だったのである。



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細菌学は当初,感染症の原因菌,つまり病原菌を探ることから始まった。それは大腸菌にしろブドウ球菌にしろ,浮遊している菌である。細菌がいると思われる液体(膿汁,喀痰,糞便など)を養分を含む寒天培地に塗り,温度を37℃に保ち,そこで育ってくる細菌を単離精製し,増やした細菌を健康動物に接種することでその疾患が発生することで,その細菌がその疾患の原因と判定できる,という「コッホの三原則」に帰結した。


 では,この過程のどこに問題があったか,おわかりだろうか。それは「培養し」という部分である。

実は「培養」という操作自体が,細菌をセレクトしていたのである。つまり,培養そのものが実験系のバイアスだったのである。

 これは古細菌と呼ばれる細菌(私の記憶が間違っていなければ化学独立栄養細菌,メタン生成菌,硫酸還元菌などがそうだったと思う)で以前から指摘されていた。
こういう細菌は,実験室のあらゆる培地で培養できなかったからである。
しかし,顕微鏡を覗くと,そこには無数の細菌がいる。しかも,ATP生成を調べると,明らかにその細菌たちは生きているのである。このような知見から,VBNCという概念が1980年代に提唱され,現在では揺るぎない事実として認められているのだ。



 なぜ大部分の細菌は生きているのに培養できないのか。





これには様々な要因があるらしいが,そのほとんどは環境からのストレスだ。

温度の変化(低下や上昇),食料の減少,PHの変化など,あらゆる環境の変化はもろに細菌に直接的に影響する。このようなストレスを受けると細菌は矮小化する(容積あたりの表面積が大きくなるため,表面からの物質浸透に有利となるためと説明されている)。同時に代謝活性を低下させる。ある細菌は条件がよくなればまた代謝を再開させるし,別のある細菌は不可逆的な変性のため半死半生となっている。
これらをひっくるめて「生きているが培養できない状態 (VBNC)」と呼んでいるらしい。



 ではなぜ,自然界の細菌のほとんどがVBNCなのだろうか。


それは,土壌中の細菌も海水中の細菌も,その大部分が飢餓状態にあるためとされている。世の中,甘くないのである。この過酷な自然で生きていくための戦略がVBNC化なのである。
逆に言えば,培養できる浮遊菌とは要するに,養分が豊富にある特殊状況のものなのである。



 同時にこのことは,なぜ自然界のバクテリアが浮遊状態でなく,バイオフィルムなどの固着状態で生きている理由が明らかになる。栄養が使い果たされた環境におかれたバクテリアは,何かの「表面」に固着しようとする。物の表面は帯電しているために有機物を吸着しているからだ。その有機物をねらうなら表面にとにかくくっつくことだ。だから,表面があればそれに固着するのがバクテリア本来の生き方であり,基本戦略である。


 そのわずかな吸着有機物を利用し,次第に代謝が活発になり,次第にそこに複数の細菌が集まり,やがてそれはバイオフィルムとなる。

つまり自然界のバクテリアたちは,バイオフィルムで生きて行くしか道がないのである。

要するに,細菌たちはこの変化しやすい地球環境に生まれたときから,バイオフィルムを作って生き延びてきたわけだ。
生存のために最高度に発達したシステムがバイオフィルムである。しかも,そのバイオフィルムの中でさえも,大多数の細菌は飢餓状態であり,培養できないVBNC状態にあるのだ。





 となると,「バイオフィルムがあると抗生剤が効かない」という理由も明らかになる。
厳しい自然界で生き延びるために,自然環境の変化をもろに受けないような避難所であり,安全な生活の場がバイオフィルムだからだ。実際,細菌を試験管内の浮遊状態で調べた抗生剤の感受性と,バイオフィルムでのその細菌の感受性は全く別物である。単独浮遊細菌で有効だった抗生剤濃度の1000倍以上を投与しても,バイオフィルム内の同じ菌には効かなかった,という実験は有名である。

 そしてこの本でも,バイオフィルムの驚くべき姿を教えてくれる。バイオフィルムは複数の細菌が生存している場だが,それは「単細胞生物がたまたま集まったもの」ではなく,高度の組織化された多細胞生物に類似した機能を実現しているのである。

 バイオフィルムのマトリックス間には水が循環しているが,これは最も原初的な「循環システム(腔腸動物などの開放血管系の始まりですね)」であり,互いに代謝物をやりとりをしている様は機能分化である。これらの機能はホルモンやフェロモンに類似する化学物質のシグナルで精妙に制御されているのである。まさに多細胞生物そのものである。

 しかも,バイオフィルムの分布拡大は,フィルムから離脱する浮遊細胞によって行われているが,これはようするに,植物が成熟した胞子や種子をまき散らすのと本質的に同じだ。だからこそ,浮遊細胞は培養できたのだ。



 また,VBNCの知見はさまざまな細菌による感染症に対する見方を変えてくれる。

 例えば,コレラ菌は流行期には水の中から検出できるが,非流行期には全く検出されない。後者はVBNC状態である。ところが,この状態でもコレラ菌は毒性を失っていないのだが,なんと,人体の腸管を経由することで,培養可能な状態となり,感染力を有して復活するのだ。
同様の「人体を経由するとVBNCから培養可能型に回復する」現象は,病原性大腸菌でも検証されている。



 恐らく,この「VBNCから培養可能型へ」の変化はどんな生物の腸管でもいいわけではないだろう。恐らく,ある細菌にはある特定の動物の腸管,という対応になっているはずだ。となると,コレラ菌をその地域から一掃するのは,きわめて難しいということになりそうだ。

要するに,コレラ菌と人間は同じ生態系で生きていて,万年飢餓状態に置かれているコレラ菌が増殖するためには,ある種の動物の腸管にもぐりこむことが必要であり,たまたまその動物として人間を利用しているだけだからだ。



 また,大腸菌を海水中で培養すると急速に培養できなくなる。
従来はこのデータから,未処理の下水を海洋に投棄しても安全,とされてきたが,実はこれも,単なるVBNCであり,大腸菌は検出できない状態で生き延びていたのである。

大腸菌交じりの糞便を海水に投棄すると大腸菌が死滅しているわけではないし,大腸菌が検出されないからといってきれいな海水だというわけでもないのだ。
このあたり,かなり怖くないだろうか。





 このような知識に出会うと,医学界での抗生剤や消毒薬に関する従来の知見は,全て見直す必要があるのではないかと思われる。

従来,抗生剤の効果は浮遊菌を対象にさまざまな濃度の抗生剤を作用させ,その半分が死に絶える濃度で求められてきた。

しかし,上述のように浮遊状態は細菌の特殊な状況であり,自然状態ではVBNCが基本である。


要するに,浮遊細菌という,「最も活性が高く,最も抗生剤が効きやすい」状態で実験されてきた物である。
ここからして既に,不合理なのである。



抗生剤が有効なのは炎症を起こしている元気な細菌だけであって,VBNCにある大多数の同じ細菌には効いていない。これを繰り返していけば,やがて抗生剤は効かなくなるはずだ。






 これは消毒薬も同じだ。

消毒薬の効果を調べるためには,試験管や寒天培地に細菌をばらまき,それに消毒薬を作用させ,それを新たに培養してコロニーを作った数で調べている。しかし,本書でも繰り返し述べられているように,VBNCの細菌は全て死滅しているわけでもないし,復活できる菌が含まれている。

 まして,殺菌効果を生理食塩水に浮遊させた細菌で調べた場合,消毒薬は失活しにくいことは明白だ(生理食塩水では消毒薬は失活しない)。
一方,線維芽細胞などの人体細胞に対する毒性(作用)を調べる際には,血液培地などで細胞を培養し,その上で消毒薬を作用させるが,この実験系は最初から,消毒薬が失活しやすい条件で行われているのである(培地そのものが消毒薬を失活する効果を持つ)。


 従って,このような条件が異なる実験データを比較して,「人体には安全な消毒薬の濃度」なんて議論をするのは愚の骨頂である。



 いずれにせよこれは,多くの医療関係者に読んでいただきたい良書である。特に,院内感染の専門家を任じている先生方には,必読の書だと思う。

間違った知識(=従来の常識)を前提に感染管理を論じることは,根本から間違っているからである。


TITLE:新しい創傷治療:読書とエッセイ
DATE:2009/09/12

URL:http://www.wound-treatment.jp/next/dokusho153.htm

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー



上記の公式から現代医学をみてみましょう。



間違った知識(現代医学の基礎から始まった勘違い知識)を前提に

感染管理(新型インフルエンザをはじめ、あらゆる感染症対策=予防法、予防接種、治療薬)を論じることは

根本から間違っているからである。









はい。

細菌学=現代医療を 生物学から否定でござるw

引用させてもらった記事が、ほとんど同意出来るので、しつこく書きませんが。


細菌の状態 「生きているが培養できない状態 (VBNC)」にポイントを置きましょう。



>例えば,コレラ菌は流行期には水の中から検出できるが,非流行期には全く検出されない。後者はVBNC状態である。ところが,この状態でもコレラ菌は毒性を失っていないのだが,なんと,人体の腸管を経由することで,培養可能な状態となり,感染力を有して復活するのだ。
同様の「人体を経由するとVBNCから培養可能型に回復する」現象は,病原性大腸菌でも検証されている。


 恐らく,この「VBNCから培養可能型へ」の変化はどんな生物の腸管でもいいわけではないだろう。恐らく,ある細菌にはある特定の動物の腸管,という対応になっているはずだ。となると,コレラ菌をその地域から一掃するのは,きわめて難しいということになりそうだ。

要するに,コレラ菌と人間は同じ生態系で生きていて,万年飢餓状態に置かれているコレラ菌が増殖するためには,ある種の動物の腸管にもぐりこむことが必要であり,たまたまその動物として人間を利用しているだけだからだ。




はい。

活動出来ない状態のVBNCで、活動状況にもっていく為には、同じ生態系を使う必要がある。
つーことは、当たり前に想像できる事だが、前回の狂犬病もそーだが、人体や動物を運ぶ為の「箱」に使えるという事。
菌は、VBNC状態ならば、検知しない。
じゃ、最近の寒暖の激しさは、一体、何?という事だ。
で、死滅した菌の状態(ワクチン)って何よ?www


前回使わせてもらったthinkerは、大事なトコで見落としがあるという事だ。
が、出ていた内容で上記したものを踏まえると、より見えてくるものがある。

http://thinker-japan.com/vaccine.html

驚くべきことに、このスペイン風邪も、じつはワクチンが原因だったのです。テレビや新聞のニュースでは一切報道されませんが、最近になってその原因の科学的な究明が進んでいます。

その結果、判明したのは、米軍内 で接種されてきた腸チフスワクチンが体内で変異を起こして強力なパラチフス菌になり、それがインフルエンザの正体であることがわかったのです。そして、それが米軍内から発生していることを隠蔽するために今でもスペイン風邪と呼び続けています。このとき、インフルエンザにかかったのは、ほとんどがこのワクチンを接種された人達でした。




はい。
大腸菌は、生育速度が速い。
感染拡大の理由。

その後に、米銀基地でまたも騒ぎになる、当初、豚インフル(スペイン風邪と同じとされたもの)と呼ばれたもの。
そのパンデミックを作り煽り、インフルワクチンをラムズフェルドが大勢の市民に摂取し、ギランバレーが発症する。


さっき、チラっと書いたが、今の列島の気温の変化。
菌は、環境の変化に弱いが、死滅しているわけじゃなく、検知も出来ないが、
環境が整いさえすれば、すぐに活動を開始する。
そして、培養出来る菌は、ごくごく限られている。


それと、おもしろいのが。
現代医療(細菌学、ワクチン)の始祖にあたる、ルイ・バスツールは、往年、自分のマチガイを口にしていたそうだ。
同じく、始祖にあたるコッホは、この道の王道を風を切って歩いた。
二人には、確執があった。
そして、731部隊、北里は、コッホの弟子入りをする。










炭疽菌
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%AD%E7%96%BD%E8%8F%8C
歴史
1850年、フランスのピエール・フランソワ・オリーブ・レイエとカシミール・ジョセフ・ダヴェーヌが炭疽症に罹患した羊の血液中に細菌を発見した。
1855年、ドイツのフランツ・アロイ・アントン・ポレンダーはレイエとダヴェーヌの発見を再確認し、この菌が炭疽症の原因であることを予測した。
1857年、ドイツのフレドリック・アウグスト・ブラウエルは、健康な動物の血液からは決してレイエとダヴェーヌの細菌が見つからないことを確認した。さらに妊娠している家畜が炭疽症に罹患しても胎児には伝染しないことを発見した。
1866年、ダヴェーヌは、汚染された血液を健康な動物に注射し、炭疽を発症することを確認した。
1876年、ロベルト・コッホによってレイエとダヴェーヌの細菌が動物の炭疽症の病原体であることが証明された。コッホの原則に基づいて、初めて細菌と病原性の関係が証明されたものである。
1881年、ルイ・パスツールが、世界初の弱毒生菌ワクチンを、弱毒化した炭疽菌を使って開発した。
1946年、イギリススコットランドのグリュナード島で、連合軍が炭疽菌爆弾の投下実験を行う。この後43年間、グリュナード島は炭疽菌芽胞で高度に汚染された状態となり、その後消毒処理によって回復された。
1979年、ソビエト連邦のスヴェルドロフスクの生物兵器施設から、炭疽菌の漏出事故が発生し、住民が肺炭疽を発症。
1979年、ローデシアとジンバブエでの炭疽流行
1993年、日本でオウム真理教が生物テロを試みるが、弱毒化していたために失敗に終わったとされる。
2001年9月11日からのアメリカ同時多発テロ事件に引き続き、粉末化した炭疽菌芽胞が郵便物として送付され、肺炭疽が発生した。
2007年8月中国河北省藁城市九門郷地区で炭疽症感染により牛数十頭が死亡、人への感染も確認されている。



はい。
歴史を見れば、あきらかだが。
アベを操る奴等がこの兵器を扱っている。

現状のBC兵器は、インフルワクチンの前にナニカがくる(きてる)はず。
まぁ、それをインフルとのたまいそうだが、大腸菌がその主役にありそうな気だけしている。






コッホの弟子。
ゲオルク・ガフキー、腸チフス・・・O157などを妄想
フリードリヒ・レフラー、 ジフテリア菌の分離に成功し、口蹄疫ウイルス・・・アルツハイマーなどを妄想
北里柴三郎、破傷風菌を純粋培養し、ペスト菌・・・?


731部隊、北里に。




北里 柴三
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%87%8C%E6%9F%B4%E4%B8%89%E9%83%8E

留学時代
同郷で東京医学校の同期生であり、東大教授兼衛生局試験所所長を務めていた緒方正規の計らいにより、1885年(明治18年)よりドイツベルリン大学へ留学。コッホに師事し業績をあげた。1887年 石黒忠悳陸軍省医務局長はベルリンを訪問、北里にペッテンコーフェル研究室に移るように指示したが、コッホに面会しコッホの期待の大きさを目のあたりにした石黒は、移動命令を撤回した。[6]、1889年(明治22年)には世界で初めて破傷風菌だけを取りだす破傷風菌純粋培養法に成功、1890年(明治23年)には破傷風菌抗毒素を発見し世界の医学界を驚嘆させた。さらに血清療法という、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発した。

1890年(明治23年)には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に柴三郎の名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞した。柴三郎が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、ノーベル賞委員会や(選考に当たった)カロリンスカ研究所が柴三郎は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイディアはベーリング単独で創出したと見なしたこと[7]、賞創設直後の選考でのちのような共同授賞の考え方がまだなかったことなどが要因としてあげられている[8]。柴三郎に対する人種差別を理由とする明確な証拠はみつかっていない[8][9]。

論文がきっかけで欧米各国の研究所、大学から多くの招きを受けるが、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことであると、柴三郎はこれらを固辞して1892年(明治25年)に帰国した。


帰国後
ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする東大教授・緒方正規の説に対し脚気菌ではないと批判を呈した為、緒方との絶縁こそなかったものの「恩知らず」として母校東大医学部と対立する形となってしまい、帰国後も日本での活躍が限られてしまった。この事態を聞き及んだ福澤諭吉の援助により私立伝染病研究所が設立されることとなり、柴三郎は初代所長となった。その後、国に寄付され内務省管轄の国立伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)となり、伝染病予防と細菌学に取り組む。1894年(明治27年)にはペストの蔓延していた香港に政府より派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという業績をあげた。

かねがね伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべきとの信念のもと、内務省所管ということで研究にあたっていたが、1914年(大正3年)に政府は所長の柴三郎に一切の相談もなく、伝染病研究所の所管を突如文部省に移管し、東大の下部組織にするという方針を発表した。長年の東大との対立が背景であるといわれている。医科大学学長であった青山胤通が所長を兼任することになった。柴三郎はこれに反発し所長を辞、新たに私費を投じて私立北里研究所(現・社団法人北里研究所。北里大学の母体)を設立。狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ。

諭吉の没後の1917年(大正6年)、諭吉による長年の多大なる恩義に報いるため、慶應義塾大学医学部を創設し、初代医学部長、付属病院長となる。新設の医学部の教授陣にはハブの血清療法で有名な北島多一(第2代慶應医学部長、第2代日本医師会会長)や、赤痢菌を発見した志賀潔など北里研究所の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込み、柴三郎は終生無給で慶應義塾医学部の発展に尽力した。

また明治以降多くの医師会が設立され、一部は反目しあうなどばらばらであったが、1917年(大正6年)に柴三郎が初代会長となり、全国規模の医師会として大日本医師会が誕生した。その後1923年(大正12年)に医師法に基づく日本医師会となり、柴三郎は初代会長としてその運営にあたった。

経歴
1853年(嘉永5年) - 肥後国北里村で代々総庄屋をつとめた北里氏の支流の家に生まれる。
1866年(慶応2年) - 熊本に出て、田中司馬(儒者、医学)の塾に入門。
1869年(明治2年) - 12月、熊本藩の藩校時習館に入寮。学問・武芸に励む。
1971年(明治4年) - 2月、熊本の古城医学所病院に入学。蘭医コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトに師事。
1875年(明治8年)- 4月、22歳で東京医学校(1877年東京大学医学部と改称)に入学。[10]
1883年(明治16年)- 11月、東京大学医学部卒業(予科3年、本科5年の課程を7年半で修了)。内務省衛生局に奉職。
1883年(明治16年)- 4月、松尾臣善(第6代日銀総裁)長女・乕と結婚。
1885年(明治18年) - 11月、ドイツ留学を命じられる。
1886年(明治19年) - 1月、ドイツベルリン大学のコッホ研究室に入り研究を開始。
1889年(明治22年) - ベーリングと共に世界で最初に破傷風菌の純粋培養に成功。
1890年(明治23年) - 世界で初めて血清療法を発見し、ジフテリア毒素と破傷風毒素に対する抗血清を開発する。1901年(明治34年)の第1回ノーベル賞候補となった。12月、肺結核治療研究のため皇室から金一千円を下賜され、留学期間を1年延長(内務省は休職)。
1891年(明治24年) - 8月、医学博士の学位を受ける。日本に戻り福澤諭吉らの援助により伝染病研究所を設立
1894年(明治27年) - 2月、伝染病研究所を芝区愛宕町に移転、ジフテリア抗血清の製造、これによる治療を開始。5月、日本政府により調査派遣された香港で、6月、感染症である腺ペストの病原菌を共同発見した。ほぼ同時に、アレクサンダー・イェルサンもペスト菌を発見した。最初、ペスト菌はpasteurella pestis(パスツレラ ペスティス)と呼ばれていたが、今ではYersinia pestis(エルシニア ペスティス)と呼ばれている。
1899年(明治32年) - 3月、伝染病研究所が国立(内務省)に移管され、4月、所長に就任。
1906年(明治39年) - 4月、日本連合医学会会頭。9月、帝国学士院会員に任命される。
1908年(明治41年)- 6月、恩師コッホ夫妻を迎える。
1913年(大正2年) - 日本結核予防協会を設立、副会頭に就任。
1914年(大正3年) - 伝染病研究所が内務省から文部省に移管され東京大学に合併される時、移管に反対して所長を辞任。この時、志賀潔を始めとする研究所の職員全員が一斉に辞表を提出した。伝研騒動といわれる。11月5日に私費を投じて北里研究所を設立。
1915年(大正4年) - 恩賜財団済生会芝病院(現東京都済生会中央病院) 設立とともに初代院長となる。
1916年(大正5年)- 11月、府県の医師会を統合して、大日本医師会を設立、会長に就任。
1917年(大正6年) - 慶應義塾大学医学部の創立に尽力し初代学部長となる(医学科であったが1919年(大正8年)医学部と改称)。
1923年(大正12年) - 日本医師会を創設。初代会長に就任。
1924年(大正13年) - 2月、男爵叙爵。
1928年(昭和3年)- 5月、医学部長を辞任、顧問就任。
1931年(昭和6年) - 6月13日5時、脳溢血のため東京・麻布の自宅で死去。6月17日、青山斎場で葬儀。青山墓地に葬られる。



731部隊、その影響範囲、力。
まだまだ、出てくるが。

○国立病院・・・旧陸海軍病院
http://desuperado.seesaa.net/article/272615477.html


●土のうえのブログ
○memo 731の人 国立医薬品食品衛生研究所 2013/4/18

http://blogs.yahoo.co.jp/umebaze/8422154.html




北里の代名詞は、血清療法。
先に、ペストに行きましょう。
合わせると・・・



ペスト菌
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%82%B9%E3%83%88%E8%8F%8C
ペスト菌(Yersinia pestis、エルシニア・ペスティス)は、グラム陰性の通性嫌気性細菌であり、腸内細菌科に属する。両極染色で、外見は安全ピンのような形に見え、ペストの病原体となる。

発見

ペスト菌は1894年にスイス・フランスの医師で、パスツール研究所の細菌学者でもあったアレクサンドル・イェルサンが香港で発見した。また同時期に、ロベルト・コッホの指導を受けた日本人細菌学者の北里柴三郎がこれとは全く独立に発見した。しかし、ペストとペスト菌を最初に結び付けて考えたのはイェルサンであり、当初ルイ・パスツールにちなんでPasteurella pestisと付けられていたこの菌の学名は1967年に、イェルサンにちなんだYersinia pestisに改められた。

病原性と免疫

ペスト菌の病原性は、F1抗原、V抗原と名づけられた2つの抗食細胞性抗原によっており、2つともが病原性の発現に重要な役割を担っている。これらの抗原は、37℃の環境下で生成される。ペスト菌は単球などの白血球内で生き続け、F1抗原、V抗原を産生する。しかし好中球の中では生きられない。免疫作用により、F1抗原、V抗原に対応する抗体が産生され、好中球による食作用を引き起こす。

感染性

伝統的に、ペスト菌に対する初期の治療にはストレプトマイシン、クロラムフェニコール、テトラサイクリン、フルオロキノロンなどが用いられてきた。また、ドキシサイクリン、ゲンタマイシンが効果を発揮すると言う結果もある。ただし、上に挙げた抗生物質の1種または2種にたいして耐性を持つ菌も分離されている。治療は各抗生物質への感受性、耐性を見極めて行うべきである。また抗生物質のみの治療が奏功しない患者もおり、このような場合は循環補助、呼吸補助、腎補助など別の措置が必要になる。




はい。
ペストのゲノムについては、後でいこーかな、いけるかなw

とりあえず、大事な点は、2点。

「腸内細菌科」「白血球内で生息(活動)する」という事。





抗血清
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E6%B8%85%E7%99%82%E6%B3%95

抗血清(こうけっせい、英: antiserum)とはポリクローナル抗体を含む血清。抗血清は多くの疾病の受動免疫を伝達するために使用される。過去のヒトの生存者からの受動抗体の導入はエボラ出血熱に対する唯一有効な治療法である。

血清療法

動物(馬など)に、毒素を無毒化・弱毒化した上で注射し、毒素に対する抗体を作らせる。血清療法は、この抗体を含む血清を、病気の治療や予防に用いる方法である。例えば、ニホンマムシやハブの毒素に対する抗体を、馬に作らせる。マムシ等による咬傷の際、この血清を患者に投与して治療する。ただし、馬血清はヒトにとって異物であるので、投与の際にはアナフィラキシー・ショックと遅延型アレルギーに対する十分な注意が必要である。

歴史

血清療法は、1890年12月4日に北里柴三郎とエミール・ベーリングが連名で論文「動物におけるジフテリアと破傷風の血清療法について」において、血清療法の発見を発表したことにより始まる。北里柴三郎は破傷風を、エミール・ベーリングはジフテリアを研究し、特にジフテリアの場合はエミール・ルーのジフテリア毒素の発見もあって血清療法の進展にとって画期的なものとなり、後の第1回ノーベル生理学・医学賞受賞に繋がった[1]。ただし、ベーリングのジフテリア血清療法は、北里の破傷風血清療法を基にしたものであり、ベーリング本人も北里あっての受賞であることを認めている[2]。

こうして生み出された血清療法だが、運用されていく上で効果が確実ではないことと副作用の存在が課題となった。血清療法の問題点は血清中に抗体以外の物質が多く存在し、副作用や効力を弱める因子となっていたことだった。そのため、血清中から抗体のみを抽出する方法が研究され、純度の高い免疫グロブリン製剤が生み出されるに至り、多くの問題点が改善された。しかし、それでも医療現場からはより純度の高い抗体が求められ、1953年に東北大学で開発されたハイブリドーマ技術によって、1970年代にモノクローナル抗体が発明される。モノクローナル抗体は動物由来の血清を使用しない点で特色があり、血清によらずして抗体を生産する手法は1990年代から実用化されていく[3]。一方ではヒト化抗体の研究も進められており、特にエボラ出血熱では生存したヒトから取り出した抗体が使用された。


モノクローナル抗体
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AB%E6%8A%97%E4%BD%93
モノクローナル抗体(モノクローナルこうたい)とは、単一の抗体産生細胞に由来するクローンから得られた抗体(免疫グロブリン)分子。通常の抗体(ポリクローナル抗体)は抗原で免疫した動物の血清から調製するために、いろいろな抗体分子種の混合物となるが、モノクローナル抗体では免疫グロブリン分子種自体が均一である。抗原は複数のエピトープ(抗原決定基)を持つことが多く、ポリクローナル抗体は各々のエピトープに対する抗体の混合物となるため、厳密には特異性が互いに異なる抗体分子が含まれている。これに対してモノクローナル抗体では、一つのエピトープに対する単一の分子種となるため、抗原特異性が全く同一の抗体となる。

モノクローナル抗体はタンパク質薬品であり、いわゆる化学薬品と違い経口投与ができない(普通週一回の注射)、製造費用が非常に高い、細胞内部に侵入できないなどの欠点を持つ。しかしいったん標的分子に結合すると、患者自身の免疫機構が働いて標的分子を含むがん細胞を高率で破壊できるなどの利点をもつ。また、免疫グロブリン自体はヒトの体内に存在する分子なので、それ自身による副作用は予想しやすい。

米バイオテクノロジー産業における役割

モノクローナル抗体は1990年代後半から、バイオテクノロジー産業に革命をもたらし、現在のバイオテクノロジー薬品のほぼ3分の1はモノクローナル抗体である。1997年にGENENTECH社のRituxan抗体が抗CD20抗体として非ホジキンリンパ腫 (NHL) に対して認可されたのをはじめ、Herceptin, Avastinなどのシグナルトランスダクションやアンジオジェネシスを標的とする新型をふくめ、現在15以上のモノクローナル抗体ががん治療などに使われ、少なくとも100を超えるモノクローナル抗体がPhaseI・II・IIIの臨床試験で開発されている。特にがん治療において使われ、2004年の売り上げは約60億ドル、2008年までにモノクローナル抗体の売り上げは150億ドルを超えると予想される。また、次世代モノクローナル抗体で呼ばれる、放射性同位体を結合したものや、抗体可変部位のみの極小型、などの新型が開発されている。





はい。
でわ、前回の最後に出した、血液製剤を。

http://desuperado.seesaa.net/article/356426124.html?1366485401


B型肝炎ウイルスの遺伝子型とは?
http://www.tokumen.co.jp/column/kanzo1/06.html


輸血の歴史
http://www.tokumen.co.jp/column/kanzo1/04.html
 古くから血液が失われると、体が次第に弱り死に至ることが知られていました。しかし、実際に輸血が行われるようになってから、まだ100年もたっていません。輸血を実現するために二つの重要な発見が必要でした。そのひとつが「血液型」で、もうひとつが血液を凝固しないようにできる「抗凝固剤」の開発でした。

 1900年になってオーストリアのランドシュタイナーが血液型にA、B、Oの三つがあることを発見し、翌年に彼の弟子であるカステロが第四の血液型であるAB型を発見しました。血液型を合わせた輸血を行えば、副作用として起こる溶血を予防できることがわかったのです。1940年にランドシュタイナーとウィーナーが、もう一つの重要な血液型であるRh式血液型を発見し、現在の体制が整いました。

 フィブリノーゲンがフィブリンになる血液凝固の過程で、カルシウム・イオンが必要です。ですから、採血した血液にカルシウムと結合して溶けなくするクエン酸ナトリウムを加えると、血液が凝固せず、従って輸血できることが1914年にわかり、1937年に世界で最初の血液銀行が米国のシカゴに設立されました。その後抗凝固剤が改良され、現在使用されているものに近づきました。

 この頃から世界は第二次世界大戦の混乱に突入しました。戦争では兵隊さんが怪我をして出血しますから、頻繁に輸血の必要性がおこりました。そこで問題が生じました。輸血後に、黄疸を発症して肝臓が悪くなる人が出てきたのです。経口感染する「流行性」肝炎と区別するために、輸血後肝炎は「血清」肝炎と呼ばれるようになりました。




う〜む。
クエン酸ナトリウム
クエン酸といえば、ファイザーの代名詞でしたね。

○バイオ兵器「エイズ」を巡ってエトセトラ 〜ファイザーとGEヘルスケア 多国籍製薬メーカー〜
http://desuperado.seesaa.net/article/356028523.html?1366283026



輸血、血液製剤といえば、分かってると思いますが、現状の放射能被害の拡大。

○血液製剤などからの内部被ばく
http://desuperado.seesaa.net/article/277868350.html




はい。

血清療法が生まれたのが、
1890年12月4日に北里柴三郎とエミール・ベーリング。
どちらも、コッホの弟子。
血液型の分類が1900、1901年。
輸血の技術が1914年。
1937年に世界で最初の血液銀行が米国のシカゴに設立
フィブリノーゲンっつーと、C型肝炎を思い出すな。

1897年のペスト。
そこから1926年の百日咳まで間がある

おぼろげに見えてきそうな流れだな。



エミール・ベーリング
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0

エミール・アドルフ・フォン・ベーリング(Emil Adolf von Behring, 1854年3月15日 - 1917年3月31日)はドイツの医学者・実業家。

西プロシアのハンスドルフ Hansdorf(現ポーランド・ヤントカヴェ Jantkawe)に生まれ、生家が大変貧しかったため学費の要らない陸軍医科専門学校に進学し、軍医として陸軍医務局所属。

創傷に対し有効な殺菌薬はないか検討の上実地で試し、ヨードホルムの殺菌性を発見。 これにより医務局は評価を高め研究者として、薬理学者ピングの元に送られた。

その後、軍を辞めベルリン衛生試験所に移り、ローベルト・コッホの助手として衛生学を学ぶ。

1884年に、フリードリヒ・レフラーがジフテリア菌の純粋培養に成功。当時ジフテリアは、感染すると死亡率40%にもなり、一刻も早い治療方法の確立が望まれていた。

当初、薬物で殺菌を試みたが思うような効果をあげられなかった。感染しても死に至らないものもいる為、血液中には殺菌を行う化学物質があり、それらをコッホの4原則に基づき、純粋培養し感受性宿主へ接種できないかと転換した。

1890年12月4日、ドイツ医学週報第49号に「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」を北里柴三郎との共著として発表。第50号において北里との共著ではなく、自身の名前のみでジフテリアについてデータを発表した。

1892年 ベーリング株式会社を設立する。1895年にはマールブルク大学衛生学教授と衛生学研究所長 に就任。

1896年 24歳年下のエルス・スピノラ(Else Spinola) と結婚。

1901年 「ジフテリアに対する血清療法の研究」で第一回ノーベル生理学・医学賞を受賞。受賞に際し、自分だけの功績ではなく、北里あっての結果であることを述べたとされる[要出典]。北里柴三郎が受賞できなかったのは、ジフテリアについてのデータを単独名の論文で発表したこと、ノーベル賞委員会や選考に当たったカロリンスカ研究所が血清療法のアイディアはベーリングの創出で北里は実験事実を提供しただけとみなしたこと、賞創設後最初の選考でのちのような共同授賞の考え方がまだなかったことが要因としてあげられている[1]。

死後、免疫学に功績のあった者に対して贈られるエミール・アドルフ・フォン・ベーリング賞が制定された。また、日本でも名を冠した免疫学賞、ベーリング・北里賞がある。



はい。

ベルリン衛生試験所=IGファルベンだととってくれればイイ。
1892年 ベーリング株式会社を設立。


ベーリング株式会社(現CSLベーリング) 沿革
http://www.cslbehring.co.jp/

1901年
エミール・フォン・ベーリング、第1回ノーベル生理学・医学賞を受賞
ドイツ人医師、エミール・フォン・ベーリングは、ジフテリアに対する血清治療の研究業績が認められ、第1回ノーベル生理学・医学賞を受賞する。ベーリングの偉業は、世界的にジフテリアを撲滅させた現代の免疫療法につながる。

1904年
エミール・フォン・ベーリング、ベーリングベルケ社を設立
エミール・フォン・ベーリングが、感染症治療のための血清製剤とワクチンを製造するベーリングベルケ社(ドイツ)を設立する。

1916年
CSL設立
連邦血清研究所(The Commonwealth Serum Laboratories)がオーストラリア、メルボルンに設立される。設立の背景には、海外からの血清やワクチンに頼ることができないという、第一次世界大戦中の苦い経験がある。

1919年
オーストラリアでスペイン風邪大流行
CSLは300万ドースのインフルエンザ・ワクチンをオーストラリア国内へ供給する。
くはwオーストラリアで大流行していないw帰還兵が持ち運んだとされるが、国境を事実上この時、封鎖している。

1923年
CSL、インスリンの製造開始
当時インスリンの製造は認可制で、世界にわずか4つしかないインスリン製造施設の一つがCSLだった。

1940年
第二次世界大戦中、アメリカ軍へのヒト血清アルブミン製剤の最大の供給会社に
アーマー社(アメリカ)が、第二次世界大戦中、アメリカ軍へのヒト血清アルブミン製剤の最大の供給会社となる。

1944年
CSL、ペニシリンの製造を開始
CSLは、ぺニシリンの製造を開始する。その製造量は、オーストラリア軍だけでなく、民間人にまで供給できるほど十分なものだった。

1946年
ヨーロッパ初のヒト血漿たん白分画
ベーリングベルケ社が、ヒト血清から血漿たん白の分画にヨーロッパで初めて成功する。

1949年
ZLBの設立
ZLB(Zentrallaboratorium Blutspendedienst中央輸血研究所)が、スイス赤十字の血漿分画製剤部門としてスイス、ベルンに設立される。


1952年
CSLバイオプラズマで、血漿分画法を導入
CSLはオーストラリア赤十字と共同で、血漿分画作業を開始する。オーストラリア赤十字との連携はこれより今日までいたる。

1954年
世界初の液状加熱された血漿たん白溶液
ZLBが、世界初の液状加熱された血漿たん白溶液(PPS)を作成する。

1955年
ベーリングベルケ社、α1アンチトリプシンを発見
ベーリングベルケ社によって初めてたん白分解酵素阻害剤、α1アンチトリプシンが発見される。

1956年
CSL、ポリオワクチンを製造
1956年から1960年にかけて、約1800万ドースのポリオ・ワクチンがオーストラリア国民に投与される。

1962年
新しい分画工程を確立
ZLBのKistlerとNitschmannが、新しい血漿分画工程を確立、ヒト血漿から採集した貴重なたんぱく質を効率よく利用することができるようになる。


1970年
日本で最初の静注用免疫グロブリン製剤発売
日本で最初の静注用免疫グロブリン製剤、ガンマベニンレジスタードマークが発売される。

1979年
世界初のインタクトIVIGを発売
ZLBとスイスのサンド社が、世界初の静注用のインタクト免疫グロブリン製剤、Sandoglobulinレジスタードマークを発売する。& nbsp;

1981年
世界初の液状加熱によるウイルス不活化処理法を施した第[因子製剤
ヒト血漿由来血液凝固第[因子/フォン・ヴィルブランド因子複合体製剤、Haemateレジスタードマークが、血友病患者さんの治療のため、ヨーロッパで発売される。液状加熱されたウイルス不活化処理法による第[因子は世界初。

1984年
アメリカで最初の静注用免疫グロブリン承認
ZLBの多価静注用免疫グロブリン製剤が、アメリカで最初に承認された静注用免疫グロブリンとなる。


1988年
日本で最初の生理的組織接着剤を発売
日本で最初の生理的組織接着剤、ベリプラストレジスタードマークPが発売される。

1991年
CSL、法人化
1991年4月1日、CSLが法人化される。その全ての株式はオーストラリア政府が所有。

1993年
アメリカでHelixateレジスタードマーク承認
血友病A治療のために、遺伝子組換え第[凝固因子製剤HelixateレジスタードマークがFDA(Food and Drug Administration米国食品医薬品局)に承認される。

1994年
CSLがオーストラリア証券取引所に上場
1994年5月30日、CSLは民営化され、オーストラリア証券取引所に上場される。

1994年
CSLバイオプラズマの新製造施設開設
オーストラリア、メルボルン郊外ブロードメドウズに、世界有数の規模を誇り、最先端設備を有する血漿分画製剤施設が開設される。

1996年
世界初の抗D免疫グロブリンを発売
Rh因子不適合に伴う新生児溶血性疾患を予防するために、世界初の抗D免疫グロブリン、Rhophylacレジスタードマークが発売される。& nbsp;

1998年
マールブルグ製造施設、5,000万ユーロをかけ近代化
5,000万ユーロを投資し、ドイツ、マールブルグの製造施設の近代化が完了する。

1999年
アメリカで最初のフォン・ヴィルブランド因子製剤承認
FDAは、最も一般的な遺伝性出血性疾患であるフォン・ヴィルブランド病の治療のための、ヒト血漿由来血液凝固第[因子/フォン・ヴィルブランド因子複合体製剤、Humateレジスタードマーク-Pを承認する。

2000年
遺伝子組換え第[因子製剤の新剤形発売
血友病A治療のために、遺伝子組換え第[因子製剤HelixateレジスタードマークFS、HelixateレジスタードマークNexGenが、FDAより承認される。また、EMEA(European Medicines Evaluation Agency欧州医薬品審査庁)によって承認され、ヨーロッパ15ヶ国で使用される。

2000年
ZLBバイオプラズマ設立
CSLがスイス赤十字からZLBを取得し、ZLBバイオプラズマを設立、ベルンに本社をおく。

2000年
「ゲッティン・イン・ザ・ゲーム」開始
出血性疾患の子供達に、運動の大切さを普及するワークショップ、「ゲッティン・イン・ザ・ゲーム」(Gettin' in the Game)を開始する。

2001年
ZLBプラズマサービス設立
CSLはナビ・プラズマ・コレクション・センター(アメリカ)の47の血漿採集センターと研究施設を取得、ZLBプラズマサービスを設立する。

2001年
世界最大級の血漿採集ビジネスへ
アベンティス ベーリングはセラロジカルズから42の血漿採集センターを獲得、世界最大級の血漿採集ビジネスを構築する。

2001年
財団設立
出血性疾患の患者さんの健康を研究、推進する唯一の非営利財団を設立する。

2002年
CSL、パークビルのインフルエンザ・ワクチン製造施設の拡大
CSLは、オーストラリア、メルボルン、パークビルにあるインフルエンザ・ワクチン製造施設を拡大し、北半球、南半球での供給に備える。& nbsp;

2002年
「ジュニア・ナショナル・チャンピオンシップ」開始
出血性疾患の子供達に運動の大切さを普及するため、米国血友病財団と共同で、「ジュニア・ナショナル・チャンピオンシップ」(Junior National Championships 野球とゴルフの全国大会)を開始する。

2004年
ZLBベーリング設立
CSLがアベンティス ベーリングを獲得、ZLBバイオプラズマとアベンティス ベーリングを統合し、ZLBベーリングを設立する。

2004年
EMEA、Mononineレジスタードマーク承認
血友病Bの患者さんが手術を受けたり、外傷を受けたり、激しい出血や特発性出血をした際の治療に使われるヒト血液凝固第\因子濃縮製剤 MononineレジスタードマークがEMEAに承認される。

2005年
子宮頸がんワクチン、GARDASILレジスタードマークの開発
CSLは、メルク社とクイーンズランド大学とコラボレーションの結果、子宮頸がんワクチンの開発に成功する。同製剤は、2006年、FDA、EMEAに相次いで承認を受ける。

2006年
ベルン、最新鋭の免疫グロブリン製剤製造施設、着工
スイス、ベルンの製造施設に免疫グロブリン製剤の新製造施設建設が着工する。

2006年
イギリスでVivaglobinレジスタードマーク承認
原発性免疫不全症のため抗体補充を必要とする成人、小児の患者さん用に、Vivaglobinレジスタードマークが承認される。

2006年
アメリカで最初の皮下注免疫グロブリン、Vivaglobinレジスタードマーク承認
アメリカで最初の皮下注免疫グロブリン製剤VivaglobinレジスタードマークがFDAに承認される。

2006年
パンデミック・インフルエンザ・ワクチンの開発
CSLは、引き続き、オーストラリア政府と連携をとり、パンデミック・インフルエンザ・ワクチンの開発に取り組んでいる。

2006年
ISCOMATRIXレジスタードマークアジュバントがワクチン反応を促進
CSLのISCOMATRIXレジスタードマークアジュバントの開発が、次世代ワクチンの重要な一歩となる。

2006年
ZLBベーリング、CytoGamレジスタードマークを獲得
臓器移植時に生命に関わる感染を引き起こす原因といわれるウイルス、サイトメガロ・ウイルスに対する抗体を濃縮した静注用免疫グロブリン製剤、CytoGamレジスタードマークを獲得する。

2007年
ZLBベーリング、CSLベーリングへ社名を変更
CSLグループの企業イメージを統一し、グローバル企業としてのシナジーをより発揮していくため、ZLBベーリングは、CSLベーリングへと社名を変更。組織、取扱い製品などは従来どおり。




はい。
流行の起きない(笑)南半球で流行を作ろうとしている感じだなw

ニホンでは、渋沢栄一の資金援助を得て独立した、古河財閥(アルミニウム、足尾銅山)と第一次世界大戦あたりから親交のあるシーメンス。
古河とシーメンスが作ったのが、富士電機(富士通)。
そのシーメンスメディカルで、ベーリングは繋がっている。


(独)シーメンス沿革
http://www.siemens.co.jp/Japanese/history/Pages/siemenshistoryinjapan.aspx

1970
日本シーメンス株式会社
太平洋行とシーメンス日本が統合され、富士電機製造からシーメンス製医療機器事業の譲渡を受けて発足。

1979
シーメンス メディカル システムズ株式会社
日本シーメンスの医療機事業部を分離独立させ、シーメンスの100%出資の子会社として発足。


1985
シーメンス ヒヤリング インスツルメンツ株式会社、相模電機を吸収して発足。
オスラム株式会社、独オスラム社全額出資により設立。シーメンス(株)にて行われていたオスラムのランプ事業が移管された。

1988
シーメンス旭メディテック株式会社
シーメンス メディカル システムズの組織を改め、旭化成工業(現旭化成)との合弁会社として発足。

1999
安川シーメンス オートメーション・ドライブ株式会社
安川電機との合弁による安川 シーメンスオートメーション・ドライブ株式会社が設立された。

2000
シーメンス・オートモーティブ株式会社
シーメンス(株)のオートモーティブ事業を移管。

2001
安川シーメンスNC株式会社
安川電機との合弁による安川 シーメンスNC株式会社を設立。
シーメンス株式会社のCNCシステム事業を移管。

2004
持田シーメンスメディカルシステム株式会社設立
シーメンス ファイナンシャル サービス株式会社

2006
シーメンス株式会社持ち株会社に

2007
UGS PLM ソリューションズ株式会社、シーメンス傘下に移管完了。
シーメンスメディカルソリューションズ・ダイアグノスティクス株式会社設立。
シーメンス亀田医療情報システム株式会社設立

2008
シーメンスヘルスケア・ダイアグノスティクス株式会社
デイド ベーリング株式会社との合併会社としてシーメンスメディカルソリューションズ・ダイアグノスティクス株式会社から社名変更









はい。
少し行き過ぎたw
行き過ぎたついでに少し回収。

モノクローナル抗体
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AB%E6%8A%97%E4%BD%93

1970年のモノクローナル抗体は、20年ほど失敗していたはずだが、
いろいろと製薬事業で動きのあるところだね。
臨床は、やりまくってるはずだね。
まぁ、クローン技術に放射性同位体。




輸血の技術が1914年。
1937年に世界で最初の血液銀行が米国のシカゴに設立。


クエン酸事業のファイザー、米国=ファイザーと言っても問題ないので、ここに関係してない訳がない。
ナチスは、国際決算銀行を通じ、米国オイルメジャーから援助された、だったね。

IGはロックフェラー系のナショナルシティー銀行(現在のシティーバンク)の融資で作られ、同系列の中核企業であるアメリカ最大の石油会社であるスタンダード石油(ニュージャージー)との合弁企業。

ファイザーの設立者は、ドイツ人だったね。


B型肝炎ワクチンに入る前に、、
百日咳をメモして終わろう。



ネコインフルエンザ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B6
猫インフルエンザ(英: cat flu)とはネコ科動物の上気道疾患。通常はインフルエンザウイルス感染による疾病ではないため、猫インフルエンザは誤称であるとみなされる。猫インフルエンザとはネコにおけるインフルエンザ様の呼吸器疾患を示す用語である。猫インフルエンザは1種あるいは複数の病原体によって引き起こされると考えられている。

原因による正式な名称

ネコヘルペスウイルス1型(FHV-1)を原因とする猫ウイルス性鼻気管炎(en:Feline viral rhinotracheitis)。(猫風邪)

猫カリシウイルス - 猫呼吸器疾患

気管支敗血症菌(en:Bordetella bronchiseptica) - 猫ケンネルコフ

H5N1(猫トリインフルエンザ)


猫ウイルス性鼻気管炎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AB%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B9%E6%80%A7%E9%BC%BB%E6%B0%97%E7%AE%A1%E7%82%8E
猫ウイルス性鼻気管炎(英: feline viral rhinotracheitis (FVR))とはヘルペスウイルス科に属する猫ヘルペスウイルス1型を原因とするネコの上部呼吸器感染症。猫インフルエンザ、猫コリーザとも呼ばれる。猫預かり所(en:cattery)や犬舎(en:kennel)においてはネコのウイルス性呼吸器感染症は深刻な疾病となり得る。猫ウイルス性鼻気管炎はネコの呼吸器病の半数を占め[1]、呼吸器病の中で最も重要な疾病である。猫ウイルス性鼻気管炎以外で重要な呼吸器病としては猫カリシウイルス感染症がある。

ネコ科動物の全てに猫ヘルペスウイルス1型の感受性があり、実際にドイツにおいてライオンの致死的な脳炎の原因となった例



ネコカリシウイルス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AB%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B9
ネコカリシウイルス(英: feline calicivirus, FCV)は、ネコの感染症「ネコカリシウイルス感染症」の病原体となるカリシウイルス科のウイルス。


概要
ウイルスの感染力は強く、感染したネコと直接触れ合ったことによる感染、感染したネコのくしゃみ等による空気感染、感染したネコと人間との接触を介しての感染など多岐にわたる。実験では、乾燥した環境下にウイルスを置いた場合、3〜4週間もの間ウイルスが生存していることが確認されている


予防・治療
FCVはワクチンが出来ているため、特に子ネコの場合は動物病院でワクチン接種を受けると良い。ワクチンを受けたからと言って完全に予防することは出来ないが、もし発症しても症状を大幅に軽減させられる。

発症してしまった場合、別のネコに感染するのを避けるために治癒するまで他のネコと触れ合わせないようにする。その上でスープやミルクなど猫の食べやすいものを与え、脱水症状と栄養失調を防ぎつつ治るのを待つ。FCVに直接作用する薬はないので、栄養補給を第一に考え、二次感染を防ぐ目的で必要に応じて各種抗生物質を投与する。

FCVはネコの代表的な病気であると同時に、潰瘍や肺炎など重症になるケースは少なく、成ネコであれば栄養を与えるのを怠らなければ大抵は数日で回復する。

[編集] その他
FCVはカプシドのみで形作られる簡単な構造のウイルスと言う点でノロウイルスとよく似た性質を持ち、実際にノロウイルスの代替ウイルスとして実験に用いられることもある。ただし、性質が似ているからと言っても全く同じ性質を持つわけではない事に注意する。



気管支敗血症菌
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97%E7%AE%A1%E6%94%AF%E6%95%97%E8%A1%80%E7%97%87%E8%8F%8C

気管支敗血症菌(Bordetella bronchiseptica、ボルデテラ・ブロンキセプティカ)とはボルデテラ属(Bordetella)に属する細菌であり、感染性気管支炎の原因となる[1]。気管支敗血症菌は長期間生活環境で持続することができ[2]、ヒトに固有の百日咳を引き起こす百日咳菌(Bordetella pertussis)と近縁である



百日咳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%97%A5%E5%92%B3


流行が1999〜2002年 米国
2006年〜2008年 日本
そして、2012年 千葉

マイコプラズマ肺炎と似てるそうだ。
で、wikiには、ワクチン摂取が減り成人の感染が増えたとあるが、、、

馬インフル見ると、流行る時期、マイコプラズマ、千葉。
放射能との関連性ですね。



百日咳とネコインフル。
ネコ、メモだけで終わっちゃったw


「ワクチン打つな!効かないどころか、病気を発症させて、命にも関わる、ワクチンには関わるな!」

と、皆さんがおっしゃってる事で片が付く話をダラダラとやっております。
posted by デスペラード at 18:24| Comment(1) | TrackBack(0) | いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
誰かの文献だけでなくもうちょっと薬学、微生物学を学んだ方がいいですよ。参照もウィキペディアばっかりだし
Posted by あ at 2015年02月08日 15:36
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